後期難波宮で重要な施設とみられる土壇が見つかりました

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後期難波宮で重要な施設とみられる土壇が見つかりました

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大阪市教育委員会と公益財団法人大阪市博物館協会大阪文化財研究所・大阪歴史博物館は、 平成25年11月初旬から実施してきた中央区法円坂の史跡難波宮跡における 発掘調査の成果を広く市民に公開するために、平成26年1月11日(土)13時より、発掘現場の現地説明会を開催します。
今回の発掘調査では、後期難波宮の大極殿東方で、大規模な区画施設の一部をなす遺構が見つかりました。 昨年度の調査で発見された区画施設と連続するもので、その位置や構造から、 天皇の御在所や重要な役所の一部である可能性があります。いままで実態が不明であった 後期難波宮の宮殿中枢部周辺における様相の一端が明らかになりました。

【 記 】

   日  付 : 平成26年1月11日(土) 終了いたしました。
   時  間 : 13:00〜15:00 
         ※小雨決行(開催時間までに大阪府下に暴風または
          大雨警報が発令された場合は中止とします。)
   内  容 : 調査成果の解説及び出土遺物の展示
   会  場 : 大阪市中央区法円坂1丁目(史跡難波宮跡公園北東側)
         ・地下鉄谷町線・中央線 … 谷町四丁目駅下車
                      10号出口より東へ300m
         ・JR環状線      … 森ノ宮駅下車 西へ900m
         ※車での来場はご遠慮ください。

調査の結果

・区画施設の土壇
 盛土などによって、周囲より15pほど高くなった土壇を発見しました。 重圏文軒丸瓦などが出土し、後期難波宮の遺構と考えられます。 難波宮第2次調査(以下、難波宮をNWと略す。1954年に実施)で発見された土壇の南半部にあたり、 幅約7mと推定されます。土壇にそって帯状の瓦堆積がありますので、 瓦葺の区画施設の一部でしょう。NW第2・4次調査を参考にすると、 区画施設は東西40m以上にわたって延びることになります。 昨年度の調査で発見された土壇は幅約8mと広く、 今回調査したあたりでは少し幅が狭くなっているとみられます。
・道路側溝
 土壇の南では溝が見つかりました。 幅約80p、深さ80pで、断面形は整った逆台形をなし、雨水を排水するためのものです。 約140m東の調査地で検出されている溝と一連のものであるとみられます。 その約20m南にもこの溝と平行する溝があることから、これらは道路側溝である可能性があります。 その場合、区画施設の南側に宮内の道路が存在することになります。

発掘調査成果の重要性

・区画の復元
 過去に周辺で行われた調査成果を参考に、今回発見した区画施設の範囲を復元すると、 南北約115m、東西約85mの一郭が推定されます。 まず、西面は、NW02−8次、NW第121・19次の調査区で土壇(幅4m)、礎石、雨落溝、瓦の堆積が発見されており、 北へ延びていることがわかります。 この部分は築地と庇からなる回廊(築地片庇廊か)になるようです。 NW第24次調査では東へ曲がるコーナー部分が確認され、 やはり、土壇、礎石抜取穴、雨落溝、瓦の堆積などが約50mにわたって東へ延びていることがわかっていますから、これが北面部分でしょう。 東面部分はよくわかりませんが、NW第30次調査の西端で瓦の堆積があったと報告されており、 この付近に東面ラインを求めることができます。 今回の区画施設は、NW第2・4次調査・NW12‐6次調査のものとともに、南面部分をなすものとみられます。 土壇の幅が西・北面より広いこと、内側に礎石が並ぶことから、同様に築地と庇からなる回廊構造をもち、 より大規模なものであった可能性があります。
・区画の格式の高さ
 区画の内部にはNW第7次調査で石敷きを伴う土壇がみつかっており、 別の建物があったようですが、他はまだ調査されておらず不明です。 しかし、後期難波宮では、石敷きは大極殿や内裏正殿付近などでしか発見されておらず、この区画の格式の高さが窺えます。 また、単なる築地ではなく、庇をもった回廊は、高い格式を示す要素となります。
・区画の年代
 8世紀、後期難波宮の時代でも新しい段階に位置づけることができます。地層や遺構の重複状況から、 後期の遺構を撤去してからこの区画が造られているからです。 また、建物の解体後、建替えられずに放置されていることから、難波宮最終段階まで存在した遺構とみられます。
・区画の性格
 天皇に係る施設や重要な役所である可能性があります。
天皇に関係するものであれば、後期難波宮の中でも新しい時期に造営され、内裏からは東南の方向に当ることから、 『続日本紀』天平勝宝8(756)年条には孝謙天皇が「難波宮に至り、東南新宮に御した」という記載の「東南新宮」と考えることもできます。 また、天平16(744)年、難波宮に在った元正太上天皇の宮とすることも可能でしょう。
 役所に関係するとすれば、朝堂院の東は、平城宮では磚積基壇官衙、平安京では太政官などの重要な役所がおかれることから、 やはり同様な役所があったと考えることもできます。

図1
図1 今回の調査地

図2
図2 今回調査地の平面図

図3
図3 今回調査地周辺の遺構

写真1
調査地全景 溝の左側が土壇(西から)

写真2
道路側溝と瓦堆積(東から)

【 問合せ先 】

 (公財)大阪市博物館協会大阪文化財研究所 難波宮調査事務所
 担当:高橋(TEL:06−6943−6836)

【 主 催 】

   大阪市教育委員会・大阪文化財研究所・大阪歴史博物館

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